日曜日

唐突に、玄関のチャイムが鳴ったので、急いでシャツを着てドアを開けた。どうやらNHKの集金をする人のようだ。ホワイトシャツの顔で汗をかいているおじさんだ。「まだご契約されていないようなので伺いました」 と手に持った入力機器を見ながらぼそぼそと早口でしゃべる。いったい誰に話しかけているのだろう? 僕はおじさんを不思議な気持ちで見ている。「クレジットカードをお持ちであればそちらでお支払いができます。銀行口座から引き落とすこともできます」 とおじさんが相変わらずうつむきながらぼそぼそと言う。このままでは僕の銀行口座から勝手にお金を引き落とされかねないと慌てて、「テレビはありません」と言った。おじさんが初めて顔を上げた。「あ、そうですか」 とおじさんは言い、そのまま左に歩き去った。僕はドアを閉めながらあることが気になっていた。おじさんは左に向かった。しかし、僕の部屋は一番奥の角部屋で、左にもう部屋はない。

そういえば、テレビの視聴率は、テレビを持っていない人を考慮に入れているのだろうか。テレビ側の人は、家にテレビがあることが当然で、最近のテレビ離れの問題意識も、テレビの存在をまず基本として考えている気がする。しかし、そうではない。そもそもテレビが家にないかもしれない、ということから考えを始めた方がよいのではないだろうか。そうすると、今、テレビが人の生活の中でどのような役割を果たしうるのかを見つめ直すことができるだろう。

なんてよく知りもしないことを、知った顔をして書き、発信できるのがウェブだ。ウェブ業界にいる人にしても、(僕はウェブサービスを作っている企業に身を置いているのだけど)、そこにいると、やはりというか、人はインターネットサービスを活用して生活するのが当然、というように思ってしまう。

年を重ねた、知的な人であってもどうやらこのように考えてしてしまうようだ。つまり、自分はこうなのだから他人も同じはずである、と考える。どうやら逃れがたいものらしい。なにせ、他人の思考を推し量るために、自分を基準にするというのは人が多用する効果的な手法だ。子供のころ先生に「自分がされて嫌なことは人にしないように」と言われたことがあるけれど、この言葉も、自分を相手の立場に当てはめてみて、相手の気持ちを推測しましょうという意図が含まれている。それを除くと単に「人が嫌がることをしないように」となる。

髪を切る順番待ちのソファーに座っていた。右に背の高い外国人が一人、左にハーフパンツにTシャツのおじさんが一人。本もiPhoneもなかったので、ぼんやりと思考にふける。さっき、本屋で立ち読みをした内容を思い返す。「権利には責任が伴います」。社会で生きるにあたってはという注釈をいれると、僕もその言葉に賛成だ。よく、人には誰にでも生きる権利がある、ということを言う人がいるけど、では生きる権利に伴う責任はなんですかと聞きたい。責任を語らないまま権利を語るな。

僕は社会的責任なんてなにも果たせないし、人に良いことをできる気なんてしないから、生きる権利なんてものも持っているとは思えない。そして三人掛けのソファーの一つを占める権利があるとも思えない。僕がいなければさらに一人がここに座れるし、左にいる人は待ち時間が短くなる。

そんなことを思っていると、僕の思考の中心に罪悪感があると言葉にできた。僕がいるせいで物事が悪くなるという気がしている。僕さえいなければ。

しかしこんな思考になった原因はなんだろう。僕はいったいどこでどんな罪を背負い込んでしまったのだろう?