寛容側に倒す

一つ前のエントリが八月五日だから一ヶ月以上書いてなかったのか。30日以上何も書かなかったからはてなダイアリー市民から外されてしまってた。書くのをやめようとかは全然思っていなくて、そろそろ書けるような心持ちだから、そろそろ何か書こうと思っていた。そんなときに、人からブログ書けと言われたので、ちょうど今キーボードを叩いている次第というわけだ。十一年間も毎日書いている人がいるけど、そのすごさが身にしみてしまう。

何を書こうかな。とっさに二つ思い浮かぶ。一つは、何でブログを書いていなかったかとなんで書くのか。つまりはさぼっていた理由を言い訳がましく書こう。もう一つは、寛容について。これは以前から頭の中にあったこと。どっちを書くか、寛容の方が書きやすいかな。頭の中でそれなりにまとまっている気がするし、こっちにしよう。

もっと軽い感じで日記や雑感を書いていくのがブログを継続的に続けるためにはいいんだろうけど、今は肩に力が入っているからもうちょっと考えを巡らせたことを書こうかという気になってしまう。余計な力が入っているのはスポーツでも何かをする上でも良くないんだけど、まあ、力んでいる時もあっていいんじゃないかと。若いしな。たぶん。

高校生の時には電車通学をしていた。確か高校三年生の春かもう少し前のことだったと思うけど、その頃電車内でのトラブルが話題になっていて、ニュース曰わく、サラリーマンが他の乗客に暴力をふるった、乗客同士が喧嘩を始めた、不良高校生がドアの前にたむろしていて迷惑だ。喧嘩や暴力は満員電車でのことだ。

僕が乗る電車も、今みたいに朝遅く起きて昼の電車で学校に行くという気ままな大学生の生活ではなく、多くの人のご多分に漏れず通勤時間帯の電車に乗っていた。車内はおしくらまんじゅうをするほどの混雑ではないにしろ、体が触れあう程度には満員であって、綺麗なお姉さん方に囲まれているのでもなければ、あまり長居したくはない不快な環境だ。
不快な環境にいるとストレスが溜まってくるから、満員電車内でトラブルが起きるのは無理もない。だからこの不快感をどうにかできないかな。と、電車に乗っているときには本を読んでいるかぼーっとしていたから、その間に車内環境の改善策を考えていると、そうだ仲のいい友達と乗っているときには別に気にならない。そうだ、つまり、電車内の全ての人が仲良くなってしまえばいいんだ。ということを思いついた。

それから、不良高校生のことについてもこんなことを考えていたと思う。電車内という切り取られた空間で走行中は乗車している乗客も固定されているから、そこは一つの社会と言ってもいい。そこに世間での常識を持ち込んで床に座り込むのは良くないと頭ごなしな態度をとるのはうまくないか。大事なのはその限定された空間の中にいる人がうまく付き合うことだと。

その時のことを、そうしてその考えの元に時に僕がとった恥ずかしい行動を、ふと思い出し、こんなことを考えていたんだと言いたくて友達に話したことがある。友達の意見を聞いて、他人のみんなが急に仲良くなるなんていう考えは人と人の関係や心の具合をまっとうに把握できていない、子供じみた考えなんだ、ということを思った。

そんな高校生のところから始まって、次には、人がもっと優しくなって欲しいという願いを持った。そして、今では、優しくあれなんていうのは違うとまた思い直し、寛容になってほしいということを思っている。寛容という言葉を使うのが最適かはあまり自信がないけど、他に適当な言葉は見つかっていない。

受験や就職や仕事にに失敗してもまたチャンスがあるとか、外国人労働者の受け入れ環境を改善したいとかいう社会的なシステムのことじゃない。個人のこと。個人のの思考や行動についてだ。それは人がミスをしたことや人のちょっとした暴力や悪口を、まあまあいいではないか許してやろうよ、といって受け止めることでもない。

僕にはわからないことがたくさんあるということは、わかる。人にはわからないことだらけだ。僕の隣にいる人は何を考えているのかなんてなかなかわかったものじゃあない。今なんでそんなこと言うの、顔をしかめたの、目をそらしたの? なんで歩調を早めたの? なんで後ろを振り帰ったのなんでまばたきをしたの? といった具合に疑問はどんどん出てきて、そしてわからないことだらけだ。

わかることもある。わかるとまではいかなくても確かそうな予測ができていると思うこともある。あの人は僕が嫌いだからそういうことを言うんだ。僕と利害が一致していないところがあるからすっきりした感情を持てなくてうがったことを言ってしまうんだ。後ろから物音がしたから振り返ったんだ、早く帰りたかったから歩調を早めたに違いない。とか。

でも他人の考えていることなんてわかったつもりになっても間違っていることがよくあるし、下手な予測は禁物だ。相手にどんな背景があるかはすべては知りようがないし、いくら説明されても当人と同じような思考になれるわけでもない。話してもいないのに勝手に人の考えをこうだと思い込んでいることから生まれる悲劇はよくある話だ。そしてさらに気を付けていても、自分には何ががわからないことで何がわかっていることか、どれくらいの確かさでわかっているか、考えもしていないことがどれくらいあるのかも、同様にわからない。

それでも、どれくらいできるかはわからないけど、自分がわかっているということを慎重に最小限に抑えて、予測がどれくらい確かかも考えて、わからない部分の扱いを寛容に扱う。わからいことをわからないとすることだけでも十分という気はするけど、もう少し欲張って、寛容に。

初めて合う人を乱暴に感じても、もしかしたらその人はその日嫌なことがあってたまたま機嫌がが悪いのかもしれない。こいつを嫌いだと判断するのはとりあえず保留にしておこう。偏った考え方をしていて感じの悪い人がいても一年後には変わっているための布石かもしれない。友達にひどいことを言われたりされても、それが本当に受け入れられないことでなければ、友達の自分が知らない事情について寛容側に倒して考えておこう。というようにわからない部分の扱いを寛容という指針で扱おう。

自分でそうありたいなあ、というのと同時に人にも望んでいる。

自分勝手だったり、軽薄だったり、芝居くさいような感じだったり、そういう性格の部分は何でもいいのだけど、たくさんの人がそういう寛容を身につけていけば、人間関係もきっと少しはましになるし、世論が変わってきて社会だって違う物になると思う。ただ人に裏切られたと感じて悲しい思いをすることが増えてしまうかもしれない。

社会が良くなると言ってみたところで、僕がこんなことを思っているのは、僕が人に寛容に接して欲しいからで、優しく接して欲しいからで、思いやって欲しいという、つまりは他人に甘えたいという弱さから来ている、というのはわかってしまった。他人に何かを期待するなんていうのは子供じみていて、現実を真っ正面から捉えられていないという、何かあると目をそらして地面を見つめているようなものだ。こんなよやだよーこうなてほしいよーという、簡単にいうとそれだけ。

それでもこの構想はまるっきり無駄ではないのでは、というのが今の頭の中だ。

寛容に受け止めてください。