自分を守る。無意識に。そして非難する。

以前にあったイラク日本人人質事件で、多くの人が「自己責任」「自業自得」という言葉で被害者達を非難した人質バッシングがあった。といっても僕はその自業自得論についてはマスコミが何やら騒いでいるなぁというくらいの関心しかなく、実際にどんな人たちがどの程度自業自得論を展開していたのかは知らない。ただ最近、人が誰かに対して自己責任とか自業自得だというのはなぜだろうと考えていて、イラクの人質事件のことを思い出した。

人質バッシングに対してを日本人の集団意識がどうとか、社会的な構造がどうとかいうマクロな分析はよくわからない。

しかし個人がイラク人質事件の被害者を自業自得と言うのはなぜ? と考えると、僕にもそう思う部分があると気づいた。なぜ僕が関係のない彼らに対して非難めいたことを思うのか。日本の国際的な立場に悪影響をあたえるから、自衛隊の活動に影響があるから、というわけではないだろう。何か個人的に迷惑を被ったのだろうか。そんなことはない。

ではなぜだろうと考えていると、それは恐怖心ではないかと思った。

人質になってのど元にナイフの冷たさを感じたり、銃を突きつけられる状況はたまったものでない。あの被害者達のようにはなりたくない。僕は恐がりだしお化け屋敷なんて行ったら腰が引けるし、怖そうなお兄さんには絶対に近づきたくない。だから人質になると考えただけで恐ろしくなる。どうすればそんな恐ろしい体験をせずに済むのだろう。理不尽にも暴力に巻き込まれてしまう? そんなの嫌だ、なにも悪いことをしていないのに被害をこうむるのなんて嫌だ。無難に生きていれば暴力に巻き込まれずに済むはずだ。人質になった人たちは悪いことをしたから暴力に巻き込まれたに違いない。それは、なんだ。彼らが被害者になった原因はなんだ。彼らの目的である人道支援は悪いことじゃない。立派ではないか。しかし目的は立派だったにしろ彼らは国の退去命令を無視してイラクに入国した。これはルールを破っている。国が国民の安全を考えて出した命令に逆らいイラクに入国した。つまり彼らは悪いことをしたんじゃないか、だったら暴力に巻き込まれても当然だ。そうして僕は悪いことをしていないのだから安心できるはずだ。無難な僕は安心で、彼らは出しゃばったから被害を受けた。自分から退避命令を無視という、悪いことをしのだから彼らは被害を受けても自業自得。自己責任。

というほとんど無意識の思考の元、僕には彼らを自業自得とする思いが生まれた気がする。結局のところ自らの保身のために彼らを非難している。つまり、彼らが被害を受けたのは彼らが悪いことをしたからであり自分はしていないから安全だ。

その他にも、たとえば派遣切りによって生活が苦しくなった人や、ホームレスの人たちに対して同じような思考過程での非難が起きると感じる。彼らが、うまくない状況になったのは、彼らが悪いからだ、というように。

自分を守ることは当然だ。しかしそれを自覚なしに思考に組み込んで、結果として出てくる発言や行動がおかしくなるのはそれはそれで怖い。とはいえ生物にとって恐怖心はかなり根深いところにあって(脊髄反射が良い例だが)思考よりもっと奥の部分で働くものだろう。

小学校のころ先生に「言う前によく考えよう」ということを言われたことがある。どんな文脈だったかはよく覚えていないが、たぶん人を傷つけるようなことは言わないようというのが先生の意図だったと思う。それを聞いて実践しようとすると、いつも話す前にタイムラグを挟めと言うのか、そんなの無理じゃん、と気づきすぐに諦めたと思う。
でも発言を後で見直すことはできる。だから「言ったことはよく考えよう」は可能だ。

人を非難したくなることはよくあるし、実際にそれが妥当なこともある。しかし、特に自業自得と非難をする場合には、無意識の恐怖心が要因になっていることがあるかもしれない。