内定式

大学卒業予定者・大学院修了予定者等の採用選考に関する企業の倫理憲章により、「正式な内定日は10月1日以降とする」と定められていることから、10月1日に内定式が開かれる企業が多く、僕が就職した会社もその例に漏れず内定式が今日であり、僕は久しぶりに六本木にある会社のオフィスに行くことになっていた。

久し振りにスーツに袖を通すと、就活の時の感覚が体を包んだ。家を出るといい天気でスーツでは少し汗ばんだ。この感触も覚えがあった。そうか、今の陽気は就活をしていた春と似ている。

西武池袋線練馬駅まで行き、そこから大江戸線に乗り換え六本木駅で降りた。会社のオフィスに入り、エレベーターで上がり、会場の部屋の前まで来ると、すでにほとんどの内定者が席に着いており、僕も自分の名札に記載されている席に着いた。技術職はビジネスカジュアルでもいいはずだったけど、スーツの人が大半だった。今この広い部屋に規則正しく列になって座る人たちが僕の同期だ。多い、という印象だった。

机の上には僕の名前が大きく印刷された用紙が置いてある。名前は座席位置を示すのと、名前に使う漢字を確認するものだった。両隣の人の名前を見ると席の並び順が五十音順で、さらに一部に女性が固りがあるから、職種別に分かれていることがわかった。

改めて机の上の用紙を見ていると、裏に書かれた文字が透けていて、ひっくり返してみると、「内定誓約書」と書かれていた。用紙の右下には日付、住所、名前、そして印の文字。ここに記名と捺印をすることでこの会社への入社を誓約することになるのか、としげしげと文面を見つめた。五月にもらった内々定は口約束だったから、この誓約書とこれから受け取る内定通知書を合わせて、僕と会社とが就職の正式な約束をしたことになる。春の就活で内々定を得たときは、職にありつけたと安心する気持ちが大きかった。そうしてこの内定。はっきりと目の前に就職という道が形作られたのは、今だと感じた。中学、高校、大学と、想像するだけだった就職というものの生々しい手触りがした。他の多くの物事と同様に、年を重ねるにつれて想像がどんどん現実に置き換えられていく。

用紙をもう一度ひっくり返すと、大きく印刷された僕の名前が改めて目に入った。僕の名前がこの用紙に印刷される過程を考えた。この会社のどこかに僕という存在がある。この会社にはもう僕の存在が組み込まれている、という気がした。きっと印刷された名前を通して僕の一部はこの場所に縫い付けられ、置き忘れた忘れ物があるときのように、僕は常に意識を向けざるを得ないだろう。そう考えたのは、でも、就職することを僕が当然として受け止めていなかったからだと思う。

役員の方の挨拶を聞き、内定通知書を受け取り、グループワークのようなレクリエーションを行い、研修の説明を受けるなどして内定式(グループワークは内定式には含まないみたいけど)は終わった。

式が終わると、mixiで告知されていた内定者懇親会に参加するため、新宿に向かった。新宿歌舞伎町の忍者屋敷というお店が会場となっている。お店は雑居ビルに入っているのだけど、そのビルのエレベータは見たこともないような旧式で怪しげなボタンがいくつも付いていた。

内定者の3分の2ほどが懇親会に来ており、広いフロアでさえ少し手狭だった。

懇親会は最初こそ、異なる職種でのぎこちない異文化交流が行われていたものの、次第に盛り上がる人たち(主に営業、デザイン系)と、話に興じる人たち(主に技術系)に分かれ、幹事の人たちが用意したちょっとしたゲームをやっている頃は感じた一体感も、最後の方には薄れているようだった。

お酒は余るほどに用意されていたけど、料理の出がおそくて、僕はなかなか食べられていなかった。でもエビチリが運ばれて来た頃には、もうみんなは十分に食べたようで、エビチリの周りに人があまり寄ってこなかった。ここぞと僕はエビチリを何度も取り皿に取り、エビチリを何度も口に運び、いい加減エビチリでお腹が膨れたたところで、唐突にエビチリ顔の四人組に囲まれた。
「どこの会社ですか?」
と話しかけられた。からかわれている? とすぐに思った。なぜ内定者の集まりで会社名を聞かれるのか。わけがわからない。でも、にやにやしているこの顔は僕を馬鹿にしている顔に見える。一人で柱にもたれかかっていた僕を標的に定めて近寄ってきたに違いない。僕はみじめになった。なんでまだ話したこともない人に馬鹿にされなくてはいけないのか。僕は見た目でもうこいつは駄目なやつだと決めつけられてしまったのか。入社を待たずして強いやつと弱いやつの序列は中学校の教室のように一瞬にして決まってしまうものなのか。同期にこんな人がいるという悲しさもこみ上げ、それでも何とかへらへらしながら、
「一応、……という会社ですけど」
と返した。変な愛想笑いみたいな顔になっていただろう。そうすると彼らは、おお、やほーだってよやほーなどと大声で言い合いあった。

結局は僕の勘違いで(まあ勘違いを狙っていたのかもしれないけど)、彼らは他社の内定者だった。下の階でも違う会社の内定者達が懇親会を開いており、そこからこちらに乱入してきたわけだ。今日、新宿はどこもかしこもこんな事が繰り広げられている。

幹事の熱のこもった締めの言葉で、全体としては盛り上がった懇親会は幕を閉じた。僕は二次会には(話せる相手がいなそうなので)行かずに、西武新宿駅から西武新宿線に乗ることにした。歌舞伎町の路上ではスカウトたちが夜遅くまで仕事をしていた。

今日一日で様々な人と話をして、思うところもたくさんあるけど、今はただ、就職するにあたり、そして大学を卒業するにあたり、多くのことを受け入れ、多くのことをあきらめなければならないと、そんな思いが、一番強かった。